海龍王寺について
由緒 story
創建と歴史
和銅3年(710)の平城遷都の際、藤原不比等は土師(はじ)氏から土地を譲り受け、邸宅を構えた際、北東隅にあった寺院は壊さずに残しました。この寺院が海龍王寺の前身です。
不比等の没後、娘の光明皇后が相続し、邸宅は皇后宮となります。皇后は遣唐留学僧・玄昉(げんぼう)が仏法をたずさえ無事に帰国することを願い、寺院の伽藍を整備しました。
天平7年(734)に玄昉が帰国すると、聖武天皇・光明皇后は最新の仏教や鎮護国家の基礎となる仏教政策を学んだ玄昉を重用し、内裏に近いこの寺院の住持に任じます。
玄昉が唐からの帰路、暴風雨に遭遇するも『海龍王経』を唱え無事に帰国を果したことにちなんで、寺号が海龍王寺と定められました。
平城宮跡内
道場として
玄昉は唐の都にならい、海龍王寺を「平城宮内道場」と定めて宮中の仏堂とし、伽藍を拡充し経典を充実させていきます。聖武天皇や光明皇后、天皇の生母・藤原宮子らのために祈願・祈祷を行い、宮廷寺院として天皇家を支えました。
玄昉は般若心経の流布や講釈にも熱心で、般若心経の写経も盛んに行われました。皇后宮の北東隅にあったため古くは隅寺(すみでら)とも呼ばれたことから、「隅寺心経」と称される般若心経の写経が今も残されており、般若心経写経の原本として大切に保管されています。国宝「五重小塔」、重要文化財「西金堂」は、光明皇后宮内に残る唯一の奈良時代の建造物であり、宮廷寺院の伽藍を現在まで伝える貴重な遺構です。
衰退と復興
宮廷寺院、宮内道場として繁栄した海龍王寺も、都が平安京に遷った後は次第に衰退していきます。再興は鎌倉時代のことで、西大寺を中興した真言律宗の僧・叡尊(えいそん)上人によって伽藍の復興が進められ、戒律の道場として栄えます。しかし室町時代、応仁の乱の余波を受け再び衰退しました。江戸時代になると幕府から知行100石を与えられ伽藍を維持しますが、明治の廃仏毀釈で東金堂を失うなどの大打撃を受けます。
昭和28年まで寺は荒廃していたものの、昭和40年~42年に西金堂、経蔵の解体修理が行われ復興が進み、現在に至っています。春には雪柳が境内を白一色に染め、佐保路に天平の面影を残す古寺として、今日も歴史を刻み続けています。
世界遺産・平城宮跡と
海龍王寺の位置関係について
平城宮跡というと、現在「原っぱになっている範囲」が平城宮の跡だと認識されている方が大半だと思いますが、そうではありません。
平城宮の東には光明皇后宮が隣接しており、宮内に在る海龍王寺は内廷の寺院として、聖武天皇・光明皇后の思いを支えました。
平城宮の構成要素であり、宮の東から内裏を見守った海龍王寺の存在について、お話をさせていただきたいと思います。
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海龍王寺について