海龍王寺について

寺宝 Treasure

五重小塔

国内最小・国宝建造物国内最小・五重塔(国宝)

  • 国宝
  • 奈良時代前期
  • 4.01m

創建当時から西金堂内に安置されており、細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られていることから、天平時代の建築技法を現在に伝え、塔の建築様式の発展をたどる上にも重要であること。建造物としての五重塔はこれ一基しか存在していないので、これらの点からこの小塔の価値が高く、昭和26年6月9日、国宝18号として指定を受けました。

小塔は屋内で安置することを目的とした為、近くから見たり拝んだりするので、近くから見た時の工芸的な性格を非常に重視しており、小塔の外部は組物などの細部にいたるまで忠実に作られています。

このことは寸法取りにも表れており、上層部にいくにしたがって塔身が細く作られていることから上層部と下層部の均整を重視した寸法取りを行っていることがうかがい知れます。

通常、寺院には高さが数十mの大きな五重塔があるのが一般的ですが、海龍王寺は飛鳥時代から建っていた寺院をもとに創建されたことに加え、光明皇后の住居(光明皇后宮)内という限られた敷地の中に大寺院の伽藍の形式を持ち込まなければならないという困難な状況にありました。

この事情の中で「東西両塔」を備えた伽藍の形式を持ち込むべく五重小塔を造立し、東金堂(明治初年に喪失)と西金堂の両金堂の中にそれぞれ納めたのではないかと考えられています。

海龍王寺は皇后宮の内廷寺院として、聖武天皇・光明皇后を支えましたが、五重小塔および西金堂は、光明皇后宮内に残る唯一の天平時代建造物であり、内廷仏教と内廷寺院の中心伽藍を現在に伝える仏教建造物として重要な役割を果たしています。

寺門勅額

  • 重要文化財
  • 奈良時代

明治初年まで山門に掲げられていたものであり、海龍王寺縁起には、天平三年(731年)聖武天皇が当寺に寺額を賜うた事が記されています。
檜で造られており、鏡版の彩色はわかりませんが、額縁は黒漆地に彩色された唐戸面に白縁が残っているとともに蓮華唐草の彩色がわずかに残っています。尚、この額は、平城宮跡に完成した朱雀門の門額の雛形となりました。

隅寺心経

  • 奈良市指定文化財
  • 奈良時代

天平時代に書写された般若心経で、隅(角)寺心経として著名な心経です。

心経を各一紙に一部書かれたものを十部つなぎ、一巻の巻物に仕立てていますが、この心経のようなまとまった数少ない遺例です。
また、般若心経を誦えることによる功徳を表す「功徳文」三行を本文末に付しているところが通常の般若心経と異なるところです。
弘法大師も渡唐の無事を祈願して般若心経一千巻を当寺に納経しておられ、遺巻が弘法大師筆と書かれた箱に納められていたことがわかっています。

舎利塔

  • 重要文化財
  • 鎌倉時代

水晶の宝珠形舎利容器を金銅の四方火焔で包み、精緻な金銅製台座を備えた火焔宝珠形の舎利塔です。
各部に透かし彫りや浮き彫りなどを多用した彫金技巧の冴えが見られ、鎌倉時代以降に流行した火焔宝珠形舎利塔の中では最も優れた製作であり、代表作ともいえます。

仏涅槃図

  • 奈良県指定文化財
  • 奈良時代

釈迦入滅の情景を描いており、中央、沙羅双樹に囲まれた宝台のうえに釈迦が横たわり、周囲には悲嘆にくれる菩薩・比丘・羅漢・官人・婦女子・神将・鬼神。獅子・白像をはじめ三十数種の禽獣が居並んでいます。

この涅槃図は、慟哭する人物の表情など激しからず節度をもって描かれ、彩色も朱・緑青・群青とともに桃・橙・白緑・白群など具がかった彩色を使用しており、全体的に落ち着いた明るい調子で描かれています。

毘沙門天画像

  • 重要文化財
  • 平安時代

本画像のように毘沙門天が邪鬼を踏むことなく、また眷属を伴わず独尊で宝塔と戟を執り岩の上に立つ姿で描かれるのは彩色画像では例がなく、また黒い長靴を履いて左脚を遊ばせて立つ姿態は類例を見ないことから極めて特異な尊像といえます。
海龍王寺が創建される以前から毘沙門天をまつった寺院が存在し、なおかつ平城京の東北隅にあって隅寺と呼ばれていたことを考えれば、北方位の守護神である毘沙門天が独尊でまつられていたとみることができます。

海龍王寺 八十八箇所

先代住職の松本重信が、自ら刻んだ四国八十八箇所の御本尊です。
重信和尚が、特任住職として海龍王寺に入寺した時、海龍王寺は廃寺と称されるほど大変荒廃した状態でした。
重信和尚は、若年より弘法大師の信仰に熱心であり、四国八十八箇所を何度も巡礼したことから、自らが培った弘法大師信仰によって、荒廃していた海龍王寺の復興を志しました。
本堂に安置されております一番から八十八番までの御本尊、一体一体に、海龍王寺復興の思いと僧侶・宗教者としての生き様が記されており、四国八十八箇所は遠方なのでお参り出来ない方々や、重信和尚の遺徳を偲ぶ方々が、日々お参りされています。