お知らせ Information
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令和7年 春季特別公開(後期)「十一面観音特別開帳」および「空海龍王御朱印」
期日 5月1日(木)~9日(金)
開門・閉門時間 9時開門~17時閉門
(閉門時間を越えての拝観はできません。くれぐれも時間にはご注意ください)
・十一面観音特別開帳
海龍王寺の本尊で、光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造立されました。
檜材で金泥が施され、条帛・天衣を掛け、裳・腰布をつけており、頭に天冠台・冠帯・左右垂飾、身は頸飾り・垂飾・瓔珞、手には臂釧・腕釧などの装身具をたくさん身にまとっておられます。衣の部分の彩色は朱・丹・緑青・群青など諸色の地に唐草・格子に十字などの諸文様を切金で表したもので、縁取りや区画の境界線に二重の切金線が多用されており頭飾および装身具は精緻を極め、すべて銅製鍍金で透彫りを多用し、垂飾には諸色のガラス小玉と瓔珞片を綴ったものを用いています。
像は精巧入念な作で、頭・体のプロポーション、頭部の自然な俯きに優しい手の動き、腰のひねりに巧みに応ずる右足の遊ばせ方など彫刻としての基本的なデッサンは確かなものがあり、衣の文様表現では彩色よりも切金が多く、頭飾装身具では、透彫りの技巧の細かな点が注目され、大和路を代表する秀麗な十一面観音様です。
・聖武天皇御筆 海龍王経 奈良時代
この経典は四巻、二十の段落に分かれており、釈迦が海龍王をはじめとする様々な龍王や眷属たちの為に菩薩道を説いて、仏教に帰依させている様子を表したものです。(釈迦が竜宮に赴き説法をした様子や、女人成仏のことについても記されています。)
初代の住持となった玄昉が、唐から帰国の途中、東シナ海で暴風雨に襲われた際、海龍王経を一心に唱えたところ九死に一生を得、我が国に一切経五千余巻をもたらすことができたので、玄昉が起居した海龍王寺においてこの経典を唱え、遣唐使の航海の無事を祈ったことから、聖武天皇より寺号を「海龍王寺」と定められました。
江戸時代の文書によると「聖武天皇直筆」と記されており、菊の御紋の箱に収められて現在まで伝えられています。
・弘法大師御筆 隅寺心経(般若心経)
般若心経の写経で、隅寺心経として著名な心経です。
各一紙に一部書かれたものを合わせて一〇部をつなぎ、一巻の巻子装に仕立てています。料紙には黄麻紙を用い、淡墨界を施して書写したもので本文の筆跡は各心経同一であり、体裁は首に「心経」と内題を揚げています。
鎌倉時代はじめの海龍王寺文書に《弘法大師が渡唐の無事を祈り、壱千巻の般若心経を書写・納経された》との記述があり現存する心経が「大師真筆の物である」とも合わせて書かれていることから、海龍王寺文書が書かれる以前より「弘法大師真筆の心経」として伝えられていたことがわかっています。
この心経は本文末に功徳文三行を付しており《この心経を読誦すれば、十悪(殺生など十種の悪業)、五逆(殺人など五種の罪悪)。九十五種の邪道(釈尊在世中の九十五種の外道)を破る。もしもありとあらゆる仏を供養し、ありとあらゆる仏の恩に報謝しようと思えば、まさに「観世音菩薩の般若心」(原心経)を読誦すること百遍、千編にせよ。昼夜を問わず、常にこの心経を読誦すれば、願いの叶わないことはない》という般若心経を誦える事による功徳を表しているところがこの心経の特徴です。
海龍王寺は信仰の場としてだけでなく、訪れる人々や、寺院・歴史について学ぶ人々に教育とインスピレーションを与え続ける文化的な灯台としても機能しており、歴史的背景と文化的意義から、観光客や研究者にとって重要な訪問地となっています。
また、5月1日より「空海龍王御朱印」の授与を開始いたします。
弘法大師空海が遣唐使として唐に渡られる際、海龍王寺に 千日参篭して般若心経を一千巻写し、渡唐の成功を祈願されました。この心経は隅寺心経として今も海龍王寺に残ります。
弘法大師が唐から無事に帰られた際、海龍王寺にお礼参りに来られ、自身を護った龍王を『空海龍王』と名付けられ、海龍王寺に祀り込まれました。この御朱印は空海龍王の加護を受けられることを願う御朱印です。